あしたどうしているかな

おもいついたことを。以前は好きなアイドルの話だけ1エントリしてました。内容に幅があります。

自死した友人のこと

 

去年の4月に友人を自死で亡くした。その訃報は数日して、学友たちに知らされた。そして私は、自分の心をどうしたらいいのか、全く分からなくなってしまった。

 

その子との思い出の写真や自分の感情をSNSに投稿する人を、ひたすらにタグ付けされるその子のアカウントから辿る日々が始まった。だけど、私の中のその子を失わないように、画一化されないように必死だった。

私は、その子のことを、他の子たちと思い出話のように共有してしまったら、その全てが、私との交流も全部画一化されてしまうんじゃないだろうか、そんな不安で、憤りを感じて、でも一人だと頭から離れなくて、寝ることもできない。そんな日々だった。

 

当時のメモには、

「御霊ってなんと現実感のない言葉だろう。みたま、みたま、みたま。

くそくらえみたいなカウンセリングシート渡されて、速攻ひっくり返したことを、あなたにぶちまけたい。

御霊とか、享年とか、ご葬儀とか、えらく浮いた言葉が教室に残っていた。」などと、書いてある。

 

一緒に行ったマクドナルドの奥から3番目のボックス席。

電車に揺られながら目に入る一緒に歩いた道。

新学期が始まる前に無理やり家に呼んで誕生日のケーキを用意して、何とか履修だけは組ませたこと。私のベッドで横になったことがあるその子のことを考え、眠れない日々が続く。

 

いつも学内で一緒にいる訳では無かったけれど、その子との時間は私にとても大切で、好きだった。死のうかな、とよく話すその子に、なぜ死にたいのか、という何度も問いかけた。その子の抱えている何かが私に話すことで軽くなってくれたら、という思いで電話を長く繋いだこともあった。

その子が時折見せるサインを止めたくて、せめて自分はその子の前では安定していたい。ずっとそう思っていたのに、その子の死の少し前は、それが出来なくなっていた。

自分も辛くなってしまい、沢山言葉を交わしたLINEの履歴は、一度消してしまった。その後で来たサインも私には苦しくなって、真摯に向き合えず、自分も一緒に落ちてしまってはいけないと考えてしまい、ぶっきらぼうな返信をした。私の最後の返信は、既読されることはない。

 

そして私はその子がいなくなって、自分で死を選ぶことをどう表すのかについて初めて考えた。自殺なのか、自死なのか。

何度もその子と死ぬことについて話していた中で、苦しみは人と共有できるものではないこともあって、自死に対する思いは、止められるものでも、止めるべきものでもない、と今は考えている。自死がその子の一つの決断であることも。だけど、私はその子とずっと話をしていたかった。はずなのに、突き放してしまった。死に対して責任を感じるなんておこがましいからありえないけれど、私がその時話をする相手でいたかった、これは墓場まで持っていく。

 

他の人に見えるところで一緒に過ごした時間が少なかったから、その子の最期について、私は知ることが無い。葬儀に参加することも出来なかった。

どのような方法を選んだのか、時間帯はいつだったのか、衝動だったのか、最後に考えていたことも、分からない。私は、その子が死を選んだ日、全休を謳歌していた。涼しい風を浴びながら友達とジャズを聴いて、たらぬく美味しいものを食べていた。

 

あの時行き場を無くした私が最終的にたどり着いたのが、インターネットだった。メンヘラ.jp、はてなブログ、note、発言小町、yahoo知恵袋、その他色々なサイトを巡って、似たような状況に置かれた様々な人々の言葉をとにかく隅々まで読み漁った。読んで心が軽くなる訳でも何でも無かったし、心を軽くしたいとも思っていなかったけど、時間を潰すことは出来た。そして約1年が経ち、現在このエントリを書いている。あの時の私と同じように、誰かを自死によって亡くした人にとって、もしこのエントリが届いて、空っぽの時間を過ごすことに繋がれば、と考える。